武器としての言葉
ある会合で隣に居合わせた若者が、「あいつらみんな病気だから」という趣旨の発言をした。医学に関わり合い、それを仕事にして数十年が経つが、病者に対する心ない言葉をたくさん聞いてきた。
本人は軽い気持ちで、酒の上の軽口で言ったのであろうが、心が痛んだ。
誰も好んで病気になどならない。
がんの患者さんも、時折、自分の罪のように感じておられる方を見かける。
それはひょっとして、過去に心ない言葉を投げかけられたか、そのような観念を誰かに植え付けられたのか、いずれにせよ、言葉は時として、凶器になる。現代の法治国家では、手をあげたり、害を与えれば、すぐに罰せられるので、滅多にそんなことにはならない。しかし、言葉は形として残らない限り、瞬間に空間に消えていき、証拠を残しにくい。あるいは、戦術的な才能さえあれば、微妙な言い回しの中で、相手の胸に突き刺さるような言葉を吐くこともできる。
ネット社会は、それを、恐ろしいほどの数の集団狂気に仕立てることも可能にする。
昨今の政治家は、ついに、ネットを利用し、大衆を自在に操る才能を得た。
扇状的なな言葉を発して、その間接効果で、経済をかき混ぜ、民衆を混乱させ、密かに自らの利益を得ている。その結果、苦しんだり、悲しんだり、虐げられたりする人を、膨大に作り上げても、なんの責任も取らない。
言葉が武器としてこれほど恐ろしい効果をもたらす時代があっただろうか?
言葉は本来、病んだ人を勇気づけ、励まし、幸せにするための道具ではなかったろうか。
もう一度、言葉を武器にしているあなたに問いたい。自分の母親にそんな言葉を発することができるのか。
言葉を大切にしてほしい、愛のために使ってほしい。
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