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悲しみは治療できない

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 悲しみは治療できない 新聞の記事を読んだ。戦争でトラウマを背負った父親が、30代で母を見送った。その後、アルコール依存症と認知症の診断をうけ、それから90歳で亡くなるまで、娘は壮絶な人生を送った。 憎んでも憎みきれない父親を、或るきっかけから、戦争のトラウマが、彼をそうさせてしまったのではないかと考え、彼の戦歴を調べて、厳しい戦争をくぐり抜けてきたのだと知った。 少し心が和らいだとのことだったが、それだけが救いである。 アルコール依存症、それに至る経緯、つらく悲しい介護の長い毎日を考えると胸が痛む。 医学は認知症や依存症に対して、ある程度の治療を行うことはできるが、その家族たちの悲しみを治療できない。 それは医学の範疇ではないということもできるだろうが、いたたまれない思いでいっぱいになる。 治療すべきは、病気ではなく、その人の痛みや苦しみ、そして悲しみだと思っている変わった医者は私だけでしょうか?

そこに愛はある

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登山の帰り、山道を下っていると、ある民家の前で、5歳位の女の子を見つけた。おかっぱ頭で目がくりっとして可愛らしい子供だった。 その横でお父さんがバスケットのゴールポスト組み立てていた。こんにちはと私は声をかけ、いいですね、バスケットですかと言うと、お父さんは少しはにかみながら、この子が8月からバスケットを始めたもんですからと微笑んだ。 さよならを言って、がんばれと言うと、女の子は'はい'と小さな声で返事をしました。 私はなんだか胸が暖かくなりました。 この社会では、いろんな悲しいことや苦しいことがあっても、目の前にあるこの小さな愛情は本物であり、そこでキラキラと光を放っています。 世界に愛がなくなったような気持ちさえすることもありますが、ここには確かな愛情があります。世界はまだまだ愛に溢れているんです。私たちはこの愛を大事に育てていかなければいけません。もちろん私も。

令和8年の予定

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  令和8年 鮎カフェ予定 第20回 1月10日土曜 14時 第21回 2月14日土曜 14時 第22回 3月14日土曜 14時 いずれも 隈町 黎明館にて 詳しくは電話22-0033 隈診療所に

万年筆

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 万年筆 実は万年筆が好きだ。 鉛筆やシャープペンシル、ボールペンにはない滑らかさ、潔さ、軽快感などが気に入っている 筆に近いかもしれない 昔からの悪筆で、人様には見せられない字なのだが、万年筆の柔らかで読みやすい文字が、私を癒してくれる。 なんだか、勇気づけてくれるような気持ちにさせてくれる。 私だけかもしれないが、ノートにいっぱい、自分の頭に浮かんだことを並べていくと、不思議に気持ちが落ち着き、癒やされていく 後で読み返しても、万年筆ならば辛くない、自分を許せるような気持ちがする。 朝の光の中で、コーヒーを飲みながら、ゆるゆると、文字を楽しみながら、思考を楽しむ。 そんな時間に、万年筆は最高の道具だと思っています。 高価な万年筆でなくとも、ネットで買えるPELIKANOというプラスチックの簡易なもので十分です。 貴方も朝の万年筆ライフ始めてみませんか?

勉強ではわからない事

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  勉強ではわからない事がある 三角形の面積を求めること。 世界の歴史を覚えること。 地球の成り立ちを知ること、 偉い人の考えを知ること。 これらは勉強でわかること 人を思いやること 人を愛すること。 勇気を奮って誰かを守る事 老婆の涙を愛おしく思う事 沈む夕日を見て美しいと思うこと。 ともに涙を流し汗を流し働くことに喜びを覚えること。 これらは勉強ではわからない。 汗を流したり、涙を流したり、胸を掻きむしったり、たった1人で、暗い夜道を歩きながら、誰かを愛おしく感じるとき、その全てが、勉強では得られない。何かを与えてくれる。 君の流した涙は、その勉強ではわからないことが、君の中に、もうすでにあることを、私に教えてくれた。 君が大きくなって大人になったとき、私はもうすでにいないだろうが、君の流した涙のことを、私はきっと忘れない。 どうか、素敵な大人になってください。

無分別

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       センザンコウの親子 この夏、大分で行われた"がん哲学外来市民学会大分大会"での講演を聞き直して、自分なりに少しずつ解釈をしています。 禅の言葉で「無分別」という言葉があります。 一般的には、例えば子供が成長して分別がつくようになったとか言うふうに使うが、物事の善悪とか代償とか優劣とか、と言うような他者との比較の上に成立する言葉である。つまり、相対的な価値である。 しかし、比較によって生まれた価値を善の世界では尊びません。常に自分と他人の差しか見ていないからです。他人と自分を比較する事は、常に苦しみを生み出します。他と比べない自分自身をしっかりと持てば苦しむことさえないのです。 仏教は無分別の智と言うことを提唱しています。つまり、分別しないありのままの世界、ありのままの自分を受け入れることにより、苦しみや悲しみから解脱すると考えているわけです。 なるほど、比較するという事が、苦しみを生み出すという事はよくわかりました。しかし人間の行為は全て比較の上に立っており、文章に表す事でさえ、すぐに比較の対象になります。 それを自分の心の中で比較しないというのは、かなり困難な事です。 困難であるが故に、崇高なこととも言えるでしょう。たとえ困難でも、その道の向こうにある、穏やかな世界を目指すしかないのでしょうか? ああ、また、頭が痛くなってきました。気持ちはわかります。とにかくそれを目指しましょう。 目指しながら、また、考えることとしましょう。