無分別
センザンコウの親子
この夏、大分で行われた"がん哲学外来市民学会大分大会"での講演を聞き直して、自分なりに少しずつ解釈をしています。
禅の言葉で「無分別」という言葉があります。
一般的には、例えば子供が成長して分別がつくようになったとか言うふうに使うが、物事の善悪とか代償とか優劣とか、と言うような他者との比較の上に成立する言葉である。つまり、相対的な価値である。
しかし、比較によって生まれた価値を善の世界では尊びません。常に自分と他人の差しか見ていないからです。他人と自分を比較する事は、常に苦しみを生み出します。他と比べない自分自身をしっかりと持てば苦しむことさえないのです。
仏教は無分別の智と言うことを提唱しています。つまり、分別しないありのままの世界、ありのままの自分を受け入れることにより、苦しみや悲しみから解脱すると考えているわけです。
なるほど、比較するという事が、苦しみを生み出すという事はよくわかりました。しかし人間の行為は全て比較の上に立っており、文章に表す事でさえ、すぐに比較の対象になります。
それを自分の心の中で比較しないというのは、かなり困難な事です。
困難であるが故に、崇高なこととも言えるでしょう。たとえ困難でも、その道の向こうにある、穏やかな世界を目指すしかないのでしょうか?
ああ、また、頭が痛くなってきました。気持ちはわかります。とにかくそれを目指しましょう。
目指しながら、また、考えることとしましょう。

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