がん哲学とは何か?もう一度考える
がん哲学は、特定の教義や定説があるのではなく、それぞれの人の中にある哲学こそが、がん哲学である。 つまり元々、自分の中にあるもので、誰からも教えることはできない。ただ、気づくためのヒントを与えることはできるかもしれない。 どんなにえらいお坊さんや、哲学者の言葉も、そのままに受け取るのではなく、皆さん自身の心の中にある、信念や心情、それらが元になって、それらを見直すことが、がん哲学だと、私は考える。 どんな素晴らしい言葉やお説教を聞いたとしても、その人の心の中に、真の意味で響かなければ、それは空虚な言葉の羅列でしかない。 自らの体験を人に語ることによって、その人の心の中にあるモヤモヤしたドロドロの塊から、何かが次第に形を成していき、やがて磨き上げた鉄のように強いものになる。 人の言葉ではなく、自分の言葉で、自分自身の哲学を磨き上げていくわけだ。 その行為を、静かに見守ることこそ、がん哲学コーディネーターの仕事である。 宗教とが哲学が、決定的に違うのはこの点である。自分自身の言葉で自分を磨き上げ、自分が進む方向や、自分の考えている未来を、具体的なものにしていく作業、それこそが哲学の根本である。 宗教と言うものに詳しいわけではないが、教義や理念に縛られ、その枠にがんじがらめに体を任せてしまう事は、容易であり、ある種の人たちにとっては救いであるかもしれない。 だが、がん哲学外来は、それを全て否定するものでもない。 宗教があったとしてもいい、なくてもいい、その未来に向かう姿勢そのものが大切な態度であると私は考える。 樋野興夫先生は、沈黙が大事であると述べた。沈黙は発言するもの。そして、それを聞くものの、両者の中に、反響し、その人にとっての真実の理念を作り上げる、あるいは形成していく、あるいは磨き上げていくと私は考える。 人間は哲学に救われる。そしてその哲学は、自分自身の経験や感性や成り立ち、生い立ちによって様々な側面を持つ。それゆえに、その人の哲学はその人にしか作れない。そういうものだと私は考える。