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万年筆

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 万年筆 実は万年筆が好きだ。 鉛筆やシャープペンシル、ボールペンにはない滑らかさ、潔さ、軽快感などが気に入っている 筆に近いかもしれない 昔からの悪筆で、人様には見せられない字なのだが、万年筆の柔らかで読みやすい文字が、私を癒してくれる。 なんだか、勇気づけてくれるような気持ちにさせてくれる。 私だけかもしれないが、ノートにいっぱい、自分の頭に浮かんだことを並べていくと、不思議に気持ちが落ち着き、癒やされていく 後で読み返しても、万年筆ならば辛くない、自分を許せるような気持ちがする。 朝の光の中で、コーヒーを飲みながら、ゆるゆると、文字を楽しみながら、思考を楽しむ。 そんな時間に、万年筆は最高の道具だと思っています。 高価な万年筆でなくとも、ネットで買えるPELIKANOというプラスチックの簡易なもので十分です。 貴方も朝の万年筆ライフ始めてみませんか?

勉強ではわからない事

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  勉強ではわからない事がある 三角形の面積を求めること。 世界の歴史を覚えること。 地球の成り立ちを知ること、 偉い人の考えを知ること。 これらは勉強でわかること 人を思いやること 人を愛すること。 勇気を奮って誰かを守る事 老婆の涙を愛おしく思う事 沈む夕日を見て美しいと思うこと。 ともに涙を流し汗を流し働くことに喜びを覚えること。 これらは勉強ではわからない。 汗を流したり、涙を流したり、胸を掻きむしったり、たった1人で、暗い夜道を歩きながら、誰かを愛おしく感じるとき、その全てが、勉強では得られない。何かを与えてくれる。 君の流した涙は、その勉強ではわからないことが、君の中に、もうすでにあることを、私に教えてくれた。 君が大きくなって大人になったとき、私はもうすでにいないだろうが、君の流した涙のことを、私はきっと忘れない。 どうか、素敵な大人になってください。

無分別

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       センザンコウの親子 この夏、大分で行われた"がん哲学外来市民学会大分大会"での講演を聞き直して、自分なりに少しずつ解釈をしています。 禅の言葉で「無分別」という言葉があります。 一般的には、例えば子供が成長して分別がつくようになったとか言うふうに使うが、物事の善悪とか代償とか優劣とか、と言うような他者との比較の上に成立する言葉である。つまり、相対的な価値である。 しかし、比較によって生まれた価値を善の世界では尊びません。常に自分と他人の差しか見ていないからです。他人と自分を比較する事は、常に苦しみを生み出します。他と比べない自分自身をしっかりと持てば苦しむことさえないのです。 仏教は無分別の智と言うことを提唱しています。つまり、分別しないありのままの世界、ありのままの自分を受け入れることにより、苦しみや悲しみから解脱すると考えているわけです。 なるほど、比較するという事が、苦しみを生み出すという事はよくわかりました。しかし人間の行為は全て比較の上に立っており、文章に表す事でさえ、すぐに比較の対象になります。 それを自分の心の中で比較しないというのは、かなり困難な事です。 困難であるが故に、崇高なこととも言えるでしょう。たとえ困難でも、その道の向こうにある、穏やかな世界を目指すしかないのでしょうか? ああ、また、頭が痛くなってきました。気持ちはわかります。とにかくそれを目指しましょう。 目指しながら、また、考えることとしましょう。